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こんにちは!
コンクリートを上げるからアップコンの松藤です。
【アップコン起業秘話】第324号(2023/9/29発行)
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2003年3月。
前職を退社して1か月半ほど経ちました。
充電期間と称しながら何もしない生活にも
そろそろ疲れ始めてきました。
もちろん、
生活を懸賞探しにシフトして、
時間があればパソコンの前に座っていました。
これは見た目は非常に都合よく、
家族からはネットを使って一生懸命職探しをしているのだろう、
と思われていたのかもしれません。
もう一つ時間を使っていたのは前職への貸付金の整理です。
領収書を整理してみると約300万円ほどになります。
失職中の身には300万円という金額は大変貴重です。
これを返済してもらうためにDIへ手紙を出します。
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しかし、なんら返事が来ません。
シドニーの“彼”へも手紙を出します。
が、これも同じです。
DIへは請求書を配達証明書付きの書留郵便でも送りましたが、
受け取りはされてもそれに対しての返事は帰ってきません。
無視されています。
ネットで請求の仕方を調べます。
と同時に弁護士に依頼したほうが良いのかとも思ったので
弁護士への相談の仕方なども調べていました。
こうして無駄な時間がどんどん費やされていました。
3月の後半になって、
やっと仕事を探してみようかなと思うようになってきました。
私の場合、失業保険も出ず、
時間の経過とともにお金は減り続けていきます。
実家に住んでいるので家賃はかからなくとも、
家族の生活費は当然かかってきます。
ようやくネットで職探しを始めました。
職探しは私の人生で2回目となります。
1回目はニューヨークにある
プラットインスティテュート大学院を卒業した年でした。
日本の武蔵工業大学(現東京都市大学)を卒業して
そのまま大学の研究室の研究補助員という形で就職し、
その後1年で辞めて大学院で勉強することになったため、
大学院卒業時の1988年が1回目の就職活動の時期でした。
当時のアメリカは大不況でした。
大学院の建築学科を卒業した学生でも
レジュメ(履歴書)を100社に送って1社から返事が来れば
ラッキーなどと言われていました。
私の場合はインテリアデザインを専攻していたので
少しは状況が違っていたのかもしれません。
アメリカは不景気でも当時のインテリアデザインは
アメリカとイギリスが世界のナンバー1・
大学もプラットインスティテュートと
ロンドンのAAAスクールが1・2でした。
(
プラットのインテリアデザイン卒業という経歴は
非常に強力な武器となっていました。
私の場合、送った20のレジュメはすべてパスし、
面接をすることになりました。
その中で1番最初に契約が決まったのが
シドニーのトラビス・パートナーズという建築設計事務所でした。
ランドマークタワーの設計者であるスタビンスの事務所とか、
SOM(スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル)
私の人生はまた全く違ったものであったことは確かだと思います。
それくらい、就職は人生を左右する大きな要因です。
今、私は人生で2回目の職探しをし始めました。